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Channel: 井沢満ブログ
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独擅場と独壇場

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東雲(しののめ)時をやや過ぎた頃、カフェラテを求めに
コンビニまでご先祖にご挨拶を捧げつつ歩く道すがらの大気は、
鼻孔と胸を洗うようで心地よく、たいそう幸せを感じた。
まずは健康がありがたい。

コメント欄に書き込みを頂戴し、そこでお答えするつもり
だったのだが、日がやや打ち過ぎこちらでお返し
することにする。

独壇場(どくだんじょう)と独擅場(どくせんじょう)の
差異についてである。

字義の由来は独擅場(どくせんじょう)が正しい。しかし、
現代では独壇場(どくだんじょう)が定着して、独擅場(どくせんじょう)を
退けた状態になっている。

土偏「土」と手偏(扌)の混同による間違いであるが、間違われた
ほうが現在では用いられている。

意味は、その人の得意分野における一人勝ちの状態、とでも言えば
いいのだろうか。

拙文の冒頭に東雲と書いたが、これは朝の空が闇から光へと転じて
ほの明るむ束の間を指す。「しののめ」と読むのは古代の明り取りが
篠竹を編んだ目であったことからの転用だと聞く。さすれば、
本来は「篠の目」であろうか。(これに関しては知らぬ、ただ私が
そう思うだけである)
篠の目からうっすらさす光を見上げ、夜明けを迎える古代人の姿を
彷彿させるではないか。
当時は危険も多く、身辺に漂い始めた光にさぞほっとした
ことであろう。冬場であれば、いずれぬくい太陽が
空気を温めてくれる安堵感もあったろう。
東雲の射しようによっては、雨の到来を知り農作物の
あれこれの手順に心を砕いたかもしれぬ。

日本語の芳醇なさまを説明するのに私ならずとも
「四十八茶百鼠」を上げようが、他にもし日本語の
繊細多様な性質を表すには、あかつき、しののめ、あけぼのを
示したい。

四十八茶百鼠が茶とグレーの色彩の位相(グラデーション)を示すなら、
あかつき、しののめ、あけぼのは徐々に明るむ朝の時間の推移を表す。

もっと細分化すれば、

明け(あけ)・夜明け(よあけ)・暁(あかつき)・東雲(しののめ)・曙(あけぼの)・黎明(れいめい)・払暁(ふつぎょう)・彼誰時(かわたれどき)と移行する。

かわたれどきは、昔は夕方にも使われていたが、やがて朝に限定されるようになり、
夕方は現在「たそがれ」誰ぞ彼、である。
光が不分明になり、誰何(すいか=あなたは誰かと問うこと)せねば
見分けがつかない状態であり、三島由紀夫ならこういう時「おぼめく」と
いう言葉を使う。小説中に(「金閣寺」であったか)その表現が
あったことを記憶している。

 

あかつき(暁)は現代ではすでに明るくなった状態を言うが、
いにしえでは、まだ夜が開け放つ前の暗がりを指していた。

と、こういう日本人の細やかであった感性を下敷きに置くと、
清少納言の「春は曙」と言い切る言葉そのものに、嬉しい心はずみが
みなぎる。

とこう書けば、言葉の芳醇さに於いて日本の独擅場だと
思われるが、漢語にも朝・旦・晨・早という書き分けがある。
不勉強で一語一語の字義は知らぬ。ざっと調べてみたが
さほど細かな字義の違いはないように思える。

いずれにしても東洋人特有の感性ではあろう。と漢語も讃えつつ、
しかしそれでも日本語がその繊細さに於いて優るのではないかと、
思いたがっている日本人であるわたくしがいる。といって、闇雲に
そう思い込むのではなく、漢語にはない平仮名・カタカナを
わたくしたちが保持しているからという理由はある。

言語学者ならぬ、所詮素人の拙文、もし遺漏あらばいずれ
訂正させていただく。


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