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Channel: 井沢満ブログ
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熱く熱く、熱かった「ボヘミアン・ラプソディ」

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ロック嫌いの私が見る気もなかった「ボヘミアン・ラプソディ」だが
世評の余りの高さに、重い腰を上げ映画館に珍しくネット予約して
出かけたのが昨夜。満席だった。

作品と劇中鳴り響く楽曲に心を射抜かれた。

元々、音というものは自然音以外に疎ましく思うことが多く、
まして大音声(おんじょう)でがなりたてるロックには拒否反応、
クラッシクと稀に言葉(歌詞)がいい演歌がかろうじて許容範囲というこの私が、
劇中爆流のように流されるクィーンの楽曲には、
血がざわめき泡立ち、畏怖の念さえ抱いた。本物だからなのだろう。
半世紀遅れて、クィーンのただごとならぬ力に翻弄されたのだった。

ボーカルのフレディ・マーキュリーは自身がその性的アイデンティティを
B(バイ)だという認識を、彼にとっては運命の女だった人に「あなたはG(ゲイ)よ」と言い切られるシーンの男と女、お互いの切なさ。

フレディ・マーキュリーが結婚を申し込んだその女性は終生、
彼の運命の女であり続けるのだが、しかし女性は他の男と結ばれ、
短かった生涯の晩年のフレディに寄り添ったのは男性であった。

死の近いことを悟ったフレディは伴侶であるその男を両親と妹がいる
実家に伴い紹介する。母親に男との関係を問われたフレディが
「大事な友人だ」と答えその男の手に自らの手を
そっと重ね、男もまたそれに応える。
繊細で静かなカミングアウトだが母親は女親の敏感さで察知、
息子が(最期に)伝えたい親への思いを瞬時に無言で受け入れるのだが、
「世間の常識」の権化のごとき父親がそれを察知したのかどうか、
映画では解らない。その時の父親の表情では、どちらとも取れるが
いずれにしても音楽という形で、それまでへの確執を超え和解はあった。

オンタイムでクィーンを体感、共有した世代にとっては
震えの来るような作品であろう。劇中鳴り響くクィーンの
楽曲に合わせて体が自ずと動いてしまうのだろう、私の
席の背後の男が踏み鳴らす足の振動が椅子越しに響いて、
普段なら迷惑に思うのだが、その時には「解かる、解かる」
とむしろ共感だった。ロックコンサートの魅力の
一つは、こういう場の一体化もあるのかもしれない。
クレジットタイトルが終わって、さりげなく背後の客の
顔を観たら50歳ぐらいの男であり、彼もまたオンタイムでの
クィーンファンではなく、遅れてきたファンなのであろう。
音楽を媒に、日本中の世界中のファンとつながるごとき
至福の一端をこの歳にしてやっと解ったしだいである。

映画を見ながら、ローリング・ストーンの公演を
観に行ったのを思い出していた。何の気迷いか、おそらく
世界の大いなる流行り物を観ておこうかという程度のことで、
テレビ局に手配を頼んだのであろうが、ステージに至近の
良席であった。

ロックそれ自体に相変わらず感興を催すことはなかったが、
驚嘆したのはミック・ジャガーである。
靴底に踏まれた濡れ落ち葉のようであった男が、
歌い動き始めた瞬間、いきなり艶めいて目を奪われた。

フレディ・マーキュリーもそうである。視覚的に美しい存在ではないのだが、
ライトを浴びて歌いだした途端、降臨した何かに
変貌するのである。

ということからまた連想が飛んで、「覇王別姫」というあの名作に
主演したレスリー・チャンに舞台裏で遭遇した時のことも
思い出していた。スクリーンやステージで放つ美しい光芒は、
舞台を降りた途端に消え失せ、私は本人を目の前にしても
しばし、その人が香港の高名なスターであることに気づかないほどであった。

フレディのカミングアウトシーンは静かで楽曲抜きにドラマとしての
映画で秀逸なシーンであったが、
レスリー・チャンのカミングアウトは
ステージ上で観客に向けて華々しかった。黒いタキシードのまま一曲、
真紅のハイヒールというショッキングな格好で唄い、そして
その後「これもまた、私です」とや淡々と語ったのだった。
高嶋政宏くんと観に行ったステージである。レスリー・チャンは、
親友のワダエミさんから伝えられた話だと、その時カナダに
妻子がいたと思う。

アーチストの感性は複雑で、この世の単純な男と女という
領域を時に超える。が、時に世間の理解の埒外にある。
劇中歌の中「私はこの世の贄(にえ)だった」と
生きることの辛さをフレディは歌う。栄光の頂点にいながら
骨を噛む孤独。そしてその孤独は、自ら接近した
一般人の男により救い上げられる。

「生産性がない」というあの粗野な論文を併せて私は思い出しもした。
フレディ・マーキュリーがどれほどの光芒を全世界数億の人の心に投げ入れたか、
生き抜く力を与えたか、もし経済上の生産性を言うなら、どれほどの莫大な富を英国にもたらしたか、論文を書いた主には思いも寄らないのだろう。卑小である、魂として。
政治家としての実績には刮目して来たが、あの論文の心根の低さは
いまだ不協和音として脳裏に残っている。主張の内容それ自体よりも
まがいものの言葉それ自体が帯びた、卑しさへの違和感である。

「ボヘミアン・ラプソディ」へのオマージュを記すつもりが、
思わぬ文章で讃歌を汚してしまったかもしれぬ。

この世の束の間を疾走したフレディ・マーキュリーよ、
あなたはこの世に降臨した神の一族だ。

 


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