桜田義孝五輪相の「失言」を巡って擁護派と批判派が舌戦を
繰り広げているそうだが、これは不毛の論議ではないか。
私は批判派に分類されるのだろうが、実のところ桜田五輪相の
発言を「失言」というほどではないと思っている。
不用意であった、という点で批判している。
論点を失言であったか、なかったかということに絞れば
失言ではない。ただし述べた言葉の全文を読みさえすれば、だ。
問題点は切り取られ報道されることが容易に予測できる内容を
公の職域にある身で発言してしまった、とそれに尽きる。
放送も新聞も週刊誌も、政治家の言葉の切り取りなど、
この何十年、繰り返して来たことではないか。
いいかげん学習なさい、と申し上げたい。
それを配慮せずになされた発言は、プロではない、と
それに尽きる。
政治家にとって言葉は武器である。
その武器を使うに当たって、桜田大臣はいかにも
素人であった。という以前に、武器であるという
認識もなかったのではないか。
切り取り発言をしたマスコミの非を上げる人も、またマスコミ側の
反省もそのとおりではあるが、しかし極度に時間の区切られた
放送の世界で、ある人物の発した言葉を全部紹介することなど
不可能である。
不可能を前提に論じても詮無いことであろう。
活字にも厳しい行数制限がある。
新聞から書き文字としてコメントを求められることもあるが、
232字で、というごとき注文は珍しくない。
もっと細かい注文は、たとえば14字✕32行、というごとき。
レイアウトの都合である。
以前、コメンテーターとして情報番組に出ていた者として
とりわけ生放送の時の与えられる時間の無さと、
一秒がいくらで換算される放送の世界の時間の
厳しさを肌身で知っている者としては、まず
言葉が電波や活字で広められる者としての
言葉の選択に対して厳しくあらねばならない、と
それを指摘しておきたい。
偉そうに言っているが、私も大失敗したことがある。
フジテレビ系の朝の情報番組にわりに出ている頃だ。
コメント一つに与えられる数十秒間という時間内に、
言葉をまとめる技術をまだ持たず「思いとは別に」ある言葉を発してしまい、
局に抗議が殺到、番組から随分長いこと声がかからなくなった。
しかし、それを生放送の際の極度に限られた
時間を理由に言い訳はしない。曲解される言葉を
発した自業自得である。批判を覚悟での発言と、
うっかりミスは違う。
桜田五輪相が、サイバーセキュリティ戦略担当大臣でもあることを
言う人もいないようだが、自らに対してこんな無防備なことで
セキィリティに携われるのか、と苦言を呈したい。
HPをざっと見たが、このたびの件に関する言葉がないもの
いかがなものか。華々しい活動をのみCMのごとく
並べ立てるだけが政治家のHPではなかろう。触れたら
男が下がるというようなことなのか。いや、逆であろう。
誠意を尽くして株は上がる(一件に対する言葉がもし、
あればこちらの見落としでお詫び申しあげる)
大臣としては無防備であると同時に、語彙不足である。
同じことを、「週刊新潮WEB取材班」が言っている。
「正直言って今回の問題は、桜田大臣がボキャブラリーの
乏しい人物であることを露呈したということに尽きる」
同じことをパソコン問題の時にも、感じた。なんと
言葉が拙い人なのだろう、と。
語彙の不足は短時日でどうなるものでもないが、心構えは
変えられる。少なくとも人一人の病に対して「がっかり」という
不用意な言葉を発することは、心構え一つでなくなるだろう。