「問題発言」の見出しに、また桜田義孝五輪担当相かと思ったら今回は
違う人だった。
それにしても桜田義孝五輪相は相変わらずで、塚田一郎国土交通副大臣の
「忖度」発言に関連して「新聞を見ていると、私も(失言をした)一人に数えられている」と漏らしたそうで、並べられるのは当たり前ではないか、
その発言の愚かしさという意味では同類項であるのだから、
愚痴っぽく、わざわざ言うほどのことか。言って、また
叩かれる不用意さ。
それでいて塚田氏の失言への対応について問われると「コメントを
差し控えたい」と1分間で、同じ答えを3回繰り返すという
語彙の貧相さ。桜田氏周辺は「過熱する失言報道への愚痴が
思わず出てしまったのでは」と一種の擁護をしているようだが、
原因と結果の履き違えである。愚かしい発言には、
それなりの評価が今後もついてまわる。愚痴言う暇に、
言葉を磨かれよ。
「言葉は政治家の武器である」というのが私の持論だが、
桜田氏はその武器を持たぬ。
塚田氏といい、桜田氏といい閣僚に上り詰めるほどの
お方だから、頭が悪いとは思わない。赫奕たる学歴という
ほどのことはないが、お勉強もそれなりになさって来たようで、
お人柄も双方、とりわけ悪いとも見受けない。政治家に
なる前の塚田氏は拉致問題にボランティアで取り組んでいた。
やや余談に逸れるが相次ぐ閣僚の失言を、安倍総理の長期
政権に結びつける論調があるが、愚かしい発言など
どの政権にもあった。だが余りといえば余りな失態続き。
人事は論功行賞によるものではなく、適材適所で願いたい。
無能を取り立てれば、自らの首を絞める。
安倍総理が更迭を否定したと報じられているが、
あの言い方「まずは本人からしっかり説明すべきで、
そのことを肝に銘じて職責を果たしてもらいたい」
は「自ら潔くせよ」という意味である。この文脈における
「職責」は職に対する責任である。それを「肝に銘じて」果たせよ、と。
あれだけのことを言い放ち、無事に済むわけがないことは
総理も承知の上での言葉である。
任命した当事者が(麻生派ではあるし)軽々に「更迭」という言葉は
使えない。忖度と言うなら塚田氏はここでこそ発揮すべきだし、
言外の言葉を読み取れぬ批判者たちもまた
読解力の不足であろう。
一流大学を卒業しても、鳩山さんのようなとっちらかった人もいるので
学歴が必ずしも頭の良さと等価でないことは無論である。
受験脳に秀でていることが、即頭脳の優秀さとは言えない。
求められるのは、いわゆる「地頭」の良さであろう。
地頭のよさというのは、知識に加えて想像力を持っている、と
いうことである。「今、このタイミングでこの発言をしたら、
どう受け取られ、どう利用されるか」という程度のことは
想像力があれば解かることである。
想像力は、人の痛みへの敏感さとも同義であるが、それを
身につけるには良質の文学や映画、ドラマに接するのが
一番であろう。失言を繰り返す政治家を見ていてその共通項は
「文科系の感性の欠如」である。と理数科の脳が欠如
している私が言うのも何であるが、私は国の動向に携わる
政治家ではないから私の乏しい頭脳はさして有害ではない。
それにつけても、これも持論だが「国語教育の徹底を」という
ことである。国語の時間には優れた文章や詩歌の暗唱を
提唱している。その時は意味が解らなくても、いずれ
解かる。
もともと理数科系に興味の傾いた子は、放っておけば文学作品や
詩歌に自ら馴染むことはない。社会に出てからも、それらの
作品を手に取ることはない。
学校時代に、暗唱という形で彼らの頭脳と感性に刻印しておいて
あげたいのだ。時あたかも、万葉集に国民の関心が向いている
時である。そういう意味でも、新元号の典拠を万葉集にしたことは
よかった。
庶民から防人から時の権力者に至るまで一同に会して
詩を綴る、こんな国は他にない。「令和」も所詮ルーツは
中国にあるとわざわざ吹聴する人たちがいるが、
古代中国の人たちが貴人から庶民に至るまで詩歌を
編んだということはない。万葉を元号の依処としたことには、
そういう意味もある。日本人の教養と誇りのありどころが
万葉集なのである。