テレビで、ザ・ドリフターズから荒井注さんが抜けた後参加した
志村けんさんが、いかに初期「誰?」という目で見られ
観客席はシラケたまま、苦労をした逸話をご本人の談話で
流していた。
あの当時は番組の選択肢が少ないこともあり、テレビをつければ
「八時だよ全員集合」が流れていて、ドリフ的笑いにさして
敏感でなかった私ですら、志村けんという新顔に違和感が
あったのだから、ファンには尚更であったろうし、その雰囲気の
中でコントをやり続けた志村さんは、いかに辛かったろうかと
思う。
某俳優さん夫妻に何の用でかお会いした時「これから食事するけど、
一緒にどうぞ」と誘って頂き、ふぐに目のない私は喜んで
ついて行ったのだが、どなたかと約束の時間がとうに過ぎているようで、
奥様が「待たせちゃ悪いわ」とやきもきなさっていたことを
思い出す。
小ぶりのふぐ料理屋の、小さな座敷の個室にぽつんと
待っていたのが志村けんさんだった。
挨拶は交わしたと思うのだが、この晩の志村さんの
記憶がまったくない。物静かに1人待ちわびていたであろう
志村さんの静かな姿だけを覚えている。
思うに、まだドリフに参加して日が浅く今のような存在感が
なかった頃だったのだろう。今の知名度なら会話の一つ二つは
記憶に残っているはずである。
更にそれより遡る昔、私が初めて書いたテレビドラマが
NHKの5話連続ぐらいのドラマだったのだが(「女たちの海」)
スタジオに行ったら、ちょうど役者に転向した荒井注さんの出番で、こちらのほうを鮮明に覚えている。
私が平成元年度に書いた朝のテレビ小説「青春家族」には
お笑いの分野の人が1人レギュラーに欲しく、もう有名に
なっていた志村けんさんが念頭にあり、NHKに交渉して
貰ったら「ありがたい話だが、笑いに専念したいので」と
お断りを受けた。
ではということで、入って貰ったのが所ジョージさんで、
それならそれで、所さんに宛てた脚本を書き、これは
楽しい仕事だった。大筋の話にはからまないが、
時々、飼っている亀を相手にぼそぼそ喋っているような
役柄であり、所さんも気に入っていたようでNHKの
廊下でぱったり会った時「私の役、面白いよ!」と言って
握ってくれた手のあたたかさを、いまだ覚えている。
この時私は所さん以外に、芝居経験のない素人さんに
入って欲しく、当時人気アナウンサーとして飛ぶ鳥落とす勢いであった
逸見政孝さんを考え、NHKに交渉してもらったらこちらはOKだった。
東大卒の優秀な男が、アルコールで身を持ち崩す役で、
後の逸見さんとの対談で「私、実は東大とNHKに落ちているんです」
という話を率直にしてくださったのだった。後に出た本で、私が
逸見さんをドラマに引っ張り出した経緯が書かれてあった。
俳優志望だという長男さんの相談を奥様に受けたこともある。
一緒にテレビの情報番組に出たことも。お二人ともこの世には
残念ながら、もういらっしゃらない。
思えば新味を狙ったのあろう、もう1人芝居の素人を私は
出したく、以前に男性ファッション誌で見かけたモデルの
顔と雰囲気をふと思い出し、NHKにあたってもらい引っ張って来て
貰った、それが加藤雅也くんである。
逸見政孝さんの当時の年収をたまたま聞き及んだ樹木希林さんが
「人生観が変わりましたよ」と驚きと嘆息でもらしたことも
ふと思い出す。今もそうなのだが毎日の番組を持つ人気アナの
年収は凄いのだ。一回数十万のギャラが週5である。
今は樹木希林さんも世外の人である。
人生は過ぎゆく。
しかし志村さん,深みのあるいい表情をなさるようになった。
出演を断られた時の文言のままに、ひたすらお笑いの 道を追求された
その積み重ねであろう。どの道でもストイックな道の追求は
心の丈を深くする。
イチローさんもそうである。
そしてどんな人でも、一生をかけてひたすら一つの道を追求すれば
この世に生まれて来た意味の何かを掴む。
器用貧乏であれこれ手を出し過ぎて半端な私であるが、まだ
時間は多少残されている。ひたひたと、思い定めた道を歩き続けよう。