寺山修司作・美輪明宏主演、演出、美術の「毛皮のマリー」を
観に初台の新国立劇場に出かけたのが昨日。
寺山さんと母親の濃密な母子関係をベースに、サーカスや
見世物的なケレンを取り入れて舞台に描かれた、これは
寺山さんの「詩」だ。
渋谷のパルコ劇場で初めて見たのが、かれこれ30年ほども前でそれ以降、
何度か拝見しているが、美輪さんが長年かけて磨いてきた演目であり、
見るたびに進化しているから飽きない。
ラストの美輪さん演じる母親(男である、という屈折した設定だが)の
セリフが胸にひときわ迫ったので楽屋で美輪さんにそう申し上げたら、
「昨今の母親のあり方へのアンチテーゼとして、ラストを変えたんだ」
ということだった。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
私の好きな、寺山修司の短歌である。現在の視点で読むと
誤解を招きそうだが、この歌が発表されたのは
敗戦後、日本が復興に向かい始めた頃である。
終戦からやがて74年。日本人はゆるやかに
祖国を喪失しているような気がする。日本が日本であること、
日本人であることへの考察、それに伴う覚悟が日々薄れていっては
いないだろうか。日本という砂時計から、さらさらと絶え間もなく
こぼれ落ちて行く時間の砂が見えるようだ。
面会前の控室に関ジャニの子が1人いた。顔をうつむけてひっそりと、
パンフレットを読んでいた。「あの年齢の子が、どういう
感想を言うか、盗み聞きしてみたいです」と言ったら美輪さんは
笑っていらした。昨秋のコンサートの楽屋見舞い控室では
斎藤工くんを見かけた。
「らく日(千秋楽)まで、ご機嫌うるわしゅうあそばしますように」と
楽屋を辞してから、早い夕食を摂りに劇場から数分の徒歩距離にある
オペラシティの53階にある「叙々苑」に向かった。
窓際の席を用意してくれたのだが、この高みからみはるかすと、東京も山に囲まれていることが解り、なにがなしほっとする。新宿至近の初台から見える山の連なりは、悪沢岳 三ツ峠山 扇山・・・・他であろうか。御巣鷹山の名はいまだ口にしたくない。墜落事故当時、私も大阪局行きには同便を利用していた可能性があり、何より出演陣が大阪局まで毎週飛行機を利用していたので、最初ニュースを知った時には肝を冷やした。
初めて朝のテレビ小説を書いた「いちばん太鼓」の時である。
事故のことは、私が当時こもっていた大阪ロイヤルホテルのスイートルームの
居間で藤真利子ちゃんから聞いた。真利子ちゃんがまだ29歳だった。
部屋を訪れてくれる中には、十代最後の三田寛子ちゃんや、
渡辺美佐子さんもいた。
若手の役者たちがプロデューサーに内緒で、外に飲み会に
引っ張り出してくれたのは「明日の君がもっと好き」の時と同様である。
その時のメンツに、後に自死を遂げた沖田浩之くんがいて、未だ
思い出せば寂しく心残りである。もう一度会っておきたかった。
カラオケ付きの飲み会には浅野ゆう子さんもいたような気がするが
浅野さんとは別の場所で会ったのかもしれない。
テレビの音声で聴くとさして分からないが、肉声は思わぬ低さで
野太い。それを言ったら「よく言われるんです」と言った
その言葉はよく憶えている。
作品という同じ船に乗り合わせた役者さんたち。船を降りてからは
ご縁がそこで切れる人、作品で再度ご縁を結ぶ人、私的にも
お付き合いが続く人、さまざまである。
叙々苑には、青々と晴れ渡った春の空がいつしか黄昏れ、やがてネオンの灯火が きらめく頃合いまで、ゆっくりさせてもらった。
叙々苑は2度目なのだが、マネージャー氏が挨拶に来てくれた。
肉類は最小限にと心がけているが、海鮮もあるので新国立劇場を訪れる時
たまには帰りに寄りたい店である。
劇場の敷地内には、美味しいピザを出す店もある。
とたまにこういうことを書くと、美食しているようであるが、
普段は食餌療法をしていることもあり、質素である。
ピザ屋の界隈に、私の好きな木が数本植樹されていて、淡い色の葉っぱが
微風にものやわらかくそよいでいて、そのビブラートが聞こえる
気がする。親しみを感じる木にはつい
声を出して語りかけたり触ったりする奇癖が私にはあるのだが、
連れの人々は私のそういうのには慣れているので、黙っている。
名も知らない木だが、うっかり写真を撮りそびれたので
人に訊くこともできない。「またね」と手を振ってその木と
別れた。
年年歳歳花は咲きまた散り、木々はそこに物静かに佇んでいるが
私よりうんと長くこの世にある。それもいい。