奥山和由さんに勧められて「僕はイエス様が嫌い」を見に行ったTOHOシネマズ日比谷の廊下で、不思議なコスプレの二人に遭遇した。緋色のマントを羽織王冠をかぶったのと、口ひげを蓄えた二人は、どう見てもフレディ・マーキュリー。
いや、まさか、とTOHOシネマズ日比谷のラインアップを見てみたら、
その「まさか」があったではないか。
「ボヘミアン・ラプソディ“胸アツ”応援上映」
なんという映画なんだろう。私も計2回観て2度目に胸アツに出かけた口だが、封切りからすでに、ひょっとして8ヶ月近くにならないだろうか。何が人々の心をこうも掴むのか。
「本物の映画はヒットしない」というのは奥山さんの言葉で、私も
実は深く同意なのだが・・・・というのも選良の観客というのはそう数は多くなく、(あられもなく言ってしまえば感性も、芸術上のIQもさして高くない人たちをも巻き込まねば大ヒットはあり得ないので・・・・)世界的ヒットのあの映画もこの映画も、質という意味では必ずしも高くはない。高くないから映画としての存在意義がないという意味でもないのだが。
・・・と言う価値判断で見れは「ボヘミアン・ラプソディ」という作品を
どこに置いていいのか、ちょっと判断に迷う。
私の場合は単に好き、とそこに属する映画なのかもしれない。
珍しく大勢の人と熱気を共有して見た例外中の例外的な映画ではあった。
大方大ヒット映画の波には乗りきれず、背を向けていることが
多い孤独感を長く味わって来たので「ボヘミアン・ラプソディ」に
人々と一緒に拍手出来ている自分が珍しく嬉しかったのかもしれない。
「僕はイエス様が嫌い」は超低予算で、まだ二十歳台の若い
監督が創り、海外で複数賞を得ているのだが私の感想は
いささか微妙だ。
ただ、映画のテーマを「神の不在」として捉えた場合のことだが、
私は学生の頃キリスト教系の寄宿舎で暮らし、
聖書を毎朝読み、賛美歌を歌っていてキリスト教は
生活圏にあったので・・・・映画では小学生の
男の子がいきなりキリスト教が日常にある学校へ転校
するのだが・・・・
神の不在に関しては、若い頃からの私の大テーマの一つで
あり続けたし、サルトルたちの実存主義から始まり
ニーチェの「ツァラストラかく語き」で神の死に対しては学生時代から向かい続け考え続けていたし・・・・
だから小学生視点から描かれる神の死については、私には
稚すぎて・・・・。
カメラアングルとか色使いとか、雰囲気が好きな人は
きっと入り込むのだろうなあ、と思いつつ私は
上記の如き気難しい理由で浸れなかった。
同テーマではスコセッシの「沈黙」が私には深く入って来た。スコセッシが
この映画の末尾でキリストの復活を肯定したのか、否定したのか
実のところ私には解らない。スコセッシ自身がカトリックなので、
神の沈黙に対してどう向き合ったのか測りかねるのだ。
私自身は神の死というものに直面して、それから徐々に神の
存在をおぼろに体感し始めて現在に到る。
神の蘇りは世界に今、必要なのだと思うがどういう形で
蘇りがあるのか、解らない。
ひところ古代神道に蘇りの扉を開けるキーがあるのではないかと
思いなしたことがあるが、今はそこにはやや懐疑的になっている。
あるいは量子力学の進化と共に、人は改めて神を見出すのやも
知れぬ。もはや宗教という組織任せの、また祭祀者としての
プロに託す他力の神は失せた、個々つながる神がある、という最近の
考え自体は変わってはいない。