「最澄と空海」という本を、出先でちらちら読んでいたら
学者の書いた文章にしては色気があり言葉が芳醇。
いくらか驚いて、表紙で著者名を見たら梅原猛だった。
なるほど。
うかつな話だが、その時々関心のある書物をとりあえず注文しておき、
それが数冊読まぬまま放置してあり、その中の一冊が「最澄と空海」
だったのだが、著者名を失念したまま、中を開いたのだった。
毎日一つ、新たな言葉を仕入れるように心がけ、人にも
勧めているのだが、口幅ったいことを申せば読書量だけは
多いほうで、専門領域にある特殊用語以外に日常で
新たに出会う言葉というのが少ない。
それがこの本では「聞慧」という言葉を教わった。
漢字からおよそ意味の想像はついたが、知らねば自ら使う言葉ではない。
聞慧(もんえ) 聞きかじりの知恵のこと。
聞慧を調べてみたら、仏教の「三慧」であるという。
「思慧」が思索の果てに得た知恵。「修慧」が実践を通して得た知恵。
「聞慧」という言葉をきっかけに「三慧」「思慧」「修慧」と
計4つの言葉を覚えた。
それに加えて末尾の「解説」では、「辱交」という
これも私には初対面の言葉と遭遇した。やはり漢字から
おぼろに意味は類推できるものの、自ら使いこなせる言葉ではない。
「辱交」その人と交際があることをへりくだっていう、とある。「辱交」を
調べたら「辱知」という言葉に遭遇。自分を知っていてくださる、
という意味で、知り合いであることを謙遜して言う言葉である。
というわけで、文庫本一冊からいちどきに6つもの言葉を蒐集出来た
のだった。豊作、めでたい。しかし繰り返さねば、血肉として
定着はしない。
肝心の中身だが、外食の際に食事が出てくるまでの暇つぶしにあちらを
めくり、こちらのページを翻しという気随な読み方なので読後感には
いまだ到らず。
ただ空海という奔放に生を生き抜いたと思いこんでいたお方が、
死への志向が強く2度の自殺未遂があるというくだりに驚いた。
死をエロスとして捉えていた、という記述は記憶が不確かだが
その箇所は再読に値する。
生死一如(しょうじいちにょ)、生も死も表裏一体である、と
いうごとき意味なのかどうか、それを知るためにも全体を読み通してみたい。
頭の中では生と死とは硬貨の裏表だと私も思っているが、
体感するにはいまだ到ってはいない。
今日、某予備校から私が30年以上も前に書いた小説「いちばん太鼓」の
中の一節を教材に使わせてくれと言って来た。
高校の入試問題に出てから、この30年ずっと予備校で教材として
使って頂いているので、文章はそこそこレベルをクリアしているの
だろうが、さてこの30年間自らの国語力は果してどれほど進化したで
あろうかと忸怩たるものがある。
最盛期は一昼夜で5冊読んでいたのが、視力が落ちてから出先で
時間つぶしにペラペラめくるのがせいぜい、という体たらくである。
漢文も古文も学ばねば、と思いつつ雑事にとりまぎれ果たさぬまま。
唐突な連想かもしれないのだが、香港が中国に返還されたのが1997年。
一国二制度の下、資本主義の継続が認められるのが50年間である。
ということは一国二制度は2047年まで、ということか。となれば、
あと29年? その時の中国と香港の成り行き、韓国、北朝鮮の
行く末を見てみたいのだが、生きちゃいない。
計算が不得手なので、間違っているかもしれないが、どっちにしても
もうこの世にはいない。生きている間は、せっせと言葉を
集め磨きたいと願っている。職人さんの道一筋を私は尊敬するのだが、
ぶきっちょで他に能もない私は、言葉の職人道をひたひたと
歩きたく思うのだ。極めればある境地に到達するであろうかと
思いつつ、道半ばに斃れるやもしれぬ。
作品の輝きに年齢も経験も関係がないことであるし、何を言葉の
到達点としていいのか解らぬまま、しかし自分には歌う声なく
動くに足る身体なく、絵も描けぬ。言葉を道連れにこの世の最後の
時まで歩いて行こう。
言葉は日本だ。そして私は日本が好きなのだ。