私も若い時は「友達の友達は友達だ」ぐらいのおおらかさと
無防備さだったのですが、少しは世の中を見聞きするうち
慎重になって来ました。
友達の友達が敵であることもある。多々ある。
ある人から電話がかかって「相談なんだけど」と。
「あの会ねえ、あの人が勝手に声かけて、私の知らない人まで
呼んだっていうの」
私もいささか、聞いて憂鬱になりました。呼んだと言われるその人達は
私にも未知の人たちです。
お互い共有する言語空間というのがあり、付き合いが長いほど
それは濃いのです。だから「会おうね」という時はその空間を
予期して約束するのですが、そこに想定外の第三者というのは
常に出会いを求める若者ならいざ知らず、普通億劫なのではないでしょうか。
皆さんいかがですか。性格にもよると思うけれど。
電話で相談してきた人は顔のよく知られた人で、その憂鬱感も
あったようです。仲間内で、くつろごうと構えていたのに
外野からの視線を浴びることになるのかと。
「あなたも写真撮られてフェイスブックとかツイッターに上げられたら、いやでしょ」
とその人が言うので「私は平気。それにあなたほど有名じゃないし」
と答えたのでしたが、その人が余りに気が重そうなので、
「私が、その人に言おうか?」と言ったのですが、結局それも
角が立つなあ、という結論で。
結局相談の結果、二人共そのことには触れず、ここは大人になって、
とにかく出ようということにまとまりました。
当初親しい者同士でくつろごうと、という会の趣旨でした。
しかし、いかにこちらが、気疎く思おうと声をかけられ参加をする人たちは
そのために、スケジュールを空けたのだろうし、
それを断られていい気はしないだろうし、また
声をかけた人の顔を潰すから、という理由で
二人共不満はぐっと腹に押し込んで、私達にとっては
異質な初対面の人達がいる集まりに出たのでした。
それで思い出すことがあります。
私達が思ったことは腹に飲み込んで、想定外第三者の出席を
表向きは快く是としたのと反対のケースです。
知人から、さる有名な方に会ってくれぬかと打診を受け、私は
その場の趣旨を聞いて「はて、いささか場違いな?」とは
感じたものの、お相手がそういうことを気になさらぬ方なのであろうと、
スケジュールを空け、承諾したのでした。もうお一人、同じことを
言われ承諾した人がいて、こちらは私の友人です。
ところが、さる有名な方が「会いたくない」と言って来た、と
の返事で仰天しました。
「会いたくない」は、こんな強烈な言い方ではなく、「場違いな人たちを、
なぜ呼ぶの?」というレベルの反応であったは思うのです。
場違いは最初から場違いなので、それはいいのですがしかし、
失礼な人だなあ、とは思いました。大人なら、一度出席の
返事をした相手に向かって「来るな」ということの非礼は知っているだろうし、
(実は多分知らない)、間に立った人の困惑も大人なら解るでしょう。
ある世界にずっと生き続け、頂点にまで上り詰めたお方です。
ある集団を指先ひとつで動かして来た人です。
ああ、大人になりそびれた人なんだな、と私は思い、しかしそれはそれとして、
その方の政治的立ち位置は応援して来たのです。
しかしそうこうするうち、相手のほころびが目につくようになりました。
まず女の問題。女はいいです、というと叱られそうですが、個人対個人の
範疇のことです。奥様やお子様がどう対処しているか、はたからは
分かりません。
ただ、これはちょっと薄汚い・・・・と感じたのは、その「影の女」が
公的な場にしゃしゃり出てきていることを知ったからです。
昔は、妾も分を心得ていて、相手の奥様をないがしろにするのは
ご法度。
自らは影にいる節度がありました。
連れて行く男もダメなら、そういうところはくっついていく女も
愛人としては二流です。二流の女しかつかない男は、たぶん
人間としては二流なんでしょう。
女房に世間的に恥をかかせる男も、その点ではカス。
相手の奥様の立場を考慮できぬ女もゲス。
いまだに、政治的立ち位置は支持していますがしかし、人として
どうよ? ということになって来ると、かなりテンションが下がったのは
事実です。
人の心の機微が掴めぬ人は、大勢の支持が必要な政治家には
向いていないのかもしれません。語る言葉もお上手ではなく、いや正直に
言えば拙劣で、もしお会いしてご縁が生じれば僭越ながら、その後ずっと多少のアドバイスが出来たと思うのですが、今はまるでその気もありません。
ところで、一つ思い出したことがあるのですが、友達の友達は友達だ、と
思い込んでいる人は案外いて、自分の友達をもう一人の友達に
無造作に会わせます。善意の人なんです。善意だからこそ、友達の友達は
友達だと思い込み、その人にかかってきた電話にさえ「出て」と受話器を
渡され困惑することがあります。
電話の主に会ったことはあるのですが、私がその人を必ずしも受け入れているかどうか、解らないではありませんか。
呼ばれた席に言ってみれば、その人の友達ではあるが、私は絶対に
2度は座を共にしたくないと思っていた人が、予告もなしにいて
愕然としたこともあります。その人が来ることが解っていれば、
私はその席には行っていません。
案の定・・・・・で、後に私がその場で、その場限定で語ったことが
妙な人の耳に密告され、不快な思いをしました。
そして後日談があり、私の談話をリークしたその人は、自らも
やがて裏切られ、すると今度は私のところに電話をかけて来て、
自分を切ったその相手の悪口を延々と言い続けます。
際限もなく延々と。ゲスはどっちへ転んでもゲスなのです。
そういえば、私に相談の電話をかけてきた人も、こぼしてました。
「あの人ねえ、自分にかかってきた電話なのに、私にも出ろっていうのよ。
理由は◯◯◯だって(詳細は省きます)。萎えるわよ。自分の友達は私にも
友達だって感覚なのかしら?」
「友達の友達は友達ではない」ということのほうが正しいのであって、
友達の友達は友達、を信じ込んでいる人は裏切られ傷つくことのほうが
多くはないですか?
ある場も集まる人によりガラリと空気が変わるのだし、口には
出さなくても、その人には二度と会いたくないと思っている
人だっているわけです。予定外の人を
呼ぶのはとりあえずマナー違反でしょう。大人社会では。
それに、人と人は合わない、うまくいかないと構えるのが
この世の常識です。それを前提に、うまくいけば、めっけものなのです。