午睡して変な時間に目が覚めたら、うっかりつけっぱなしだったテレビに
女装男子たちが写っていた。ついでに女装おっちゃんたちも。
時代が移ったなぁと思わせるのはスタジオのコメンテーターたちが
淡々と普通にリアクションをしていたことで、これが10年20年前なら
「えーっ」と、のけぞらないと収まりがつかないところ。
その前も、たまたまつけたテレビでいきなり、「男の子のメーク」というのが
あって、化粧道具を持ち歩いている男の子が映っていたが
それも、特殊な子という取り上げ方ではなく、淡々と単にレポート。
メークと女装は、するほうの動機も分野も異なるとは思うのだが、
いずれも時代の潮流ではあり、私もさして驚かなくなっているが、
ドン小西さんの日常を追う場面で、お化粧をなさっていて、
なさっているそのことより、報道する側がこれまたちっとも
驚かずとりわけコメントもなく、普通に流していることのほうに驚いた。
物書きなので、あらゆる欲望はいったん受け入れてみるし、一端は
解りたいとも思うのだが、女装願望も化粧願望も自分にはさほどないので
実のところよく解らない。
テレビに出るときはメーク室で塗ってもらうが、終わると急いで落とし、
落とすとほーっとするので化粧願望はほぼないと言っていいだろう。
顔に異物を載せ皮膚呼吸を妨げている具合で、女性は一日中よく平気だなあと
その都度思う。
テレビ出演時の化粧は、あの強面の元検事河上さんもやっていらっしゃるぐらいいで、出演自体は大昔からたまにだがやっているので、普通の男よりは男の化粧に抵抗感は少なく来たのかもしれない。身近な男優は軒並み塗っているし。
いいとも悪いとも何とも思わないというのが率直な感想だが、内館牧子などは「歓迎しないわね」とボソリという。比較的感性柔軟な人なのだが。
テレビの女装男子については、「日本男子として抵抗がある」と感想を漏らす
おじさんがいた。
女装に洋の東西はなく「日本」はとりあえず関係ないのだが。
男らしく、女らしくという概念が男が人前で泣くようになり、映画もドラマも
それを描くようになった頃から壊れ始め、「その人らしく」生きる時代に
なりつつあるのだと思う。
昔々、男の化粧について取材を受けた時「彼らは自分で戦争を起こすことはしないでしょうね」と答え、記者はなるほど、と感じ入った様子であったが今もそれは思う。
戦場にコンパクトやパフでは戦意喪失である。
平和憲法護持とか、9条にノーベル賞をというより「男も皆お化粧して、爪を塗りましょう」という運動をするほうが早いかもしれない。(むろん、やや冗談、やや皮肉である)
ただし、その運動をするなら世界規模で行うこと。日本男子だけが装って戦意喪失しても困るのである。自ら戦争は仕掛けなくても、日本を侵略したい国はある。
九条墨守を言うなら、世界にも広めないと、という理屈と同じ。
平和憲法で国が護れ、平和が維持できるならなぜ、世界中の
国が平和憲法を持たぬのか、よくよく考えるべし。
憲法という文字で書かれたにすぎないもので、平和が守れるとは
実はどこの国も考えてはいない。日本以外では。
都知事選、今回の衆院選と続いて呆れ果て
政治発言はもうすまいと思っていたのに、女装男子と化粧男子で
思わぬ平和憲法論になろうとは。