昨日の「ノイズ」という文章に、思わぬ共感の声を頂き、
病的に過敏な聴覚の持ち主である私が、気難しいことを言い過ぎているのであろうか、
と危惧があったのだが、皆さんそれぞれ聞きたくもない「ノイズ」には
悩まされているようである。
部屋のサイズ・・・・場の空間の大小(天井の高低)などで、自ずと声の高さは
調整するものと私などは人にも期待するので、裏切られることが多い。
某国と某国の人たちが、公共の場でのお行儀の悪さと共に、傍若無人な
声の高さを言われているが、日本人も随分だめになって来た。
昔はそうでもなかった気がする。
というのは昭和も初期中期ごろまでか・・・・・? 松竹大船のホームドラマなど
静かなものである。
しかし30年近くも前パリで、セーヌを往来する遊覧船、バトームッシュに乗った時、
すでに大声で宴会をしている日本人の一団があったので、もうその頃は
ダメになっていたのであろう。
・・・・・・というより、日本は騒音に対しては諸外国よりも無神経であったりする。
例えば量販店の道まで流れる音楽、駅の説明過剰な繰り返しアナウンス、
どの店に入っても不必要な音量で鳴らされている音楽。
野山や海岸で鳴らされる音楽。風や水音を聴きたいのに、無念な思いをする。
日本の電車の離発着の正確さと事故の少なさは称揚に値するが
アナウンスの煩さは世界一。
たとえば、バンコクの電車では駅が近づくと静かな低い声で
「スクンビット」とか、一回アナウンスするだけで、
「白線から離れて」や「目白ー目白ー次は目白で停車しますー」
「お忘れ物のないように」などなど
大声の案内はなく、しかしそれでバンコクの電車で事故が多発している
という話は聞かない。
選挙カーのあの大音声もわけのわからぬことの一つ。
大声で名前を連呼されなくても、投票する人物などとっくに決めている。
ノイズに過敏で気難しい私ではあるが、しかし雷がどんなに轟こうと
嵐が吹き荒ぼうと、セミや鳥が鳴きたてようとちっとも気にならない。
むしろ、聴きたいと思う。
昨年「命」という森林を舞台にしたドラマを書いて以来、せめて小物で
ヒノキを味わいたいと風呂桶もヒノキにしているのだが、これが
床に「カーン」と鳴って、昔の銭湯の響きを思い出した。
木の橋や石畳に鳴る下駄の音も気にならない、どころかむしろ好ましい。
風呂桶がプラスチックであったら、床に落ちて音を立てても私は
眉を顰めると思う。嫌な音が予測できる。
自然の音は滝も大雨も気にならない。
外に出て、聞きたくもない音楽を大きな音量で聴かされる苦痛。
最近少なくなったが、かつて和食の店に入ると正月でもないのに
琴がかき鳴らされていて、辟易としていた。
あるいは非常に気取っているふうに読まれたら心外なのであるが、
たとえばモーツァルトを低く流していても気にならない。
あの頃の一流作曲家の作った旋律が、自然に近いということなのだろうか?
だが一番あらまほしいのは、音楽抜きの白紙でお店はありたい。
せめて気が付くと、ごくかすかに鳴っているという程度に。
指圧などに行くと、ヒーリングミュージックを流していて、ヒーリングなら
よさそうなものだが、それはそれで、うるさい。
ヒーリングミュージックを称して「空き缶におしっこするような音楽」と言った人がいて
感心した。
それで思い出したが、複数名の施術者がいる治療院で、ヒーリングミュージックを
じょんじょろりん、ちょろちょろとかき鳴らしていて、うるさいなぁと思っていたら、今度は
施術者の一人(女性)が甲高い声で、客に話しかけていて
「痛くはございませんかぁ?」
オメーの声がいてーんだよ!(内心の声)
「んまあ、北海道の出身なんですかぁ!?」
だから、どうした。
「肩甲骨の周りが超固いーーーー、うわぁああああああああああ!!」
相手している男の客の声は低くぼそぼそと、たまに応じているだけなので
気にはならない。何を言われたのか、声高指圧師、
「やだそうなんだぁ、あーはっはははははは!!」
帰りに、店の評価いろいろのアンケート用紙を渡されたので、
「求む静寂」と書いた。「肩はほぐれたが、鼓膜が凝った」